日本語の表現のむつかしさについて

最近、大阪では次々に新しいビルが建てられています。弁護士法人心は梅田エリアにある大阪駅前第三ビルというビルに入っていますが、梅田エリアだけでも、ここ数年を振り返っただけで何棟もの大きなビルの建設がされています。

特に、いわゆる梅北エリア周辺は開発の勢いが著しく、次々に新しいビルが建っている印象です。

先日、このようにビルがどんどんと増えていく様子を人に説明するのに、「まるで雨後の筍のように」という表現を使いました。

ちょうど、今年も、そろそろ筍の旬まであと少しという時期ですが、雨が降った後に筍がたくさん生えてくることからこのような比喩表現が使われるようになったようです。

日本語の慣用表現としては、比較的よく登場する比喩表現なので、説明した相手の人にも、この表現の意図はちゃんと伝わったのですが、「雨後の筍」という言葉を言い終わってふと気づいたことがあります。

私は、ビルが建設されている様子は何棟も生活のなかで目にしてきましたが、地面から筍がたくさん生えてきた様子というのは、実生活のなかで体験した記憶がありません。

この時話をしていた相手の方も、実際に実生活で筍が生えてくるところを目撃したことはないようです。

通常、比喩表現というのはイメージし難い物事を、より身近でイメージしやすい物事に喩えることで、相手の理解を促進するために行う表現の手法です。

今回の私の発言の場合、実際に日常生活の中で目にしている「ビルの建設」という現象を、慣用表現として抽象的には意味は理解しているものの、実際には目にしたことのない、「雨後の筍」という言葉で喩えており、本来の比喩の効果が発揮される局面とは本末が転倒しているように思われます。

おそらく、「雨後の筍」という表現が生まれた頃には、日本社会全体で、農村人口も多く、また、都市部にも竹藪などが点在していて、筍が生えてくる様子を日常生活のなかで目にする機会も多かったのだと思われます。

以前、ブログでお話した「秋の夕日はつるべ落とし」という表現もそうですが、生活スタイルの変化の中で、日常生活からはイメージが湧きにくくなってやがて消えていく言葉や表現というものがたくさんあるのだろうと思います。

このようにノスタルジーを感じる日本語表現について考えながら、弁護士として仕事をするうえで注意をしなければならないと思うことが、こういった、比喩表現などの慣用表現を、どこまで仕事で使う文章に記載してよいかという点です。

特殊な比喩ではなく、慣用表現として書籍などでも紹介されているような比喩表現であれば、状況の説明のために裁判等の文章のなかで書いても、ダメということはないように思われます。

ただし、比喩表現というのは、論理的に説明を積み重ねて相手に理解してもらう構造はもっておらず、あくまで「Bについてイメージをもっている人に対して、AをBに喩えることで理解を促進する」という構造で機能するものです。

そのため、読み手が「B」についてどの程度、具体的なイメージを持っているかがわからない状況で使ってしまうと、かえって読み手を混乱させ理解の妨げとなる恐れもあります。

そのため、仕事で書く文章では極力使用を控えたほうがいいのだろうかと思っています。

これとよく似た問題として、擬音語・擬態語などのオノマトペの使用も、どの程度まで許容されるかと悩ましく思います。

「ドンっと後ろから突き飛ばされるような衝撃を感じた」、「被害者の両手をロープでグルグルとしばって拘束したうえで、室内の貴重品を物色した」というような表現は、陳述書などでしばしば目にしますし、私も、よくこのような表現を使います。

しかし、こういった感覚的な言葉は便利なのですが、「ドンっ」、「グルグル」という言葉の語感を共有していない相手には、全く理解できない表現になるはずです。

特に、外国人の方など日本語のネイティブ以外には、この日本語のオノマトペの感覚は理解しにくいとも聞きます。

この点で、不特定多数の誰が読んでも、同じ理解に至れることができる分かりやすい文章を目指すのであれば、比喩表現やオノマトペの使用は控えた方が良いのだろうと思います。

ただ、「グルグル」巻きの状況を「グルグル」という言葉を使わずに説明しようと思うと、「幾重にもロープを重ねて・・・」、「ロープも何周も回しかけて、何重にもして・・・」と、なんとなくぎこちない文章になるように思います。

結論が出せる問題ではないと思いますので、これからもあれこれ悩みながら文章を考えていきたいと思います。