再転相続の場合の相続放棄の熟慮期間の起算点について(2)

こんにちは。

弁護士の江口潤です。

 

今回は,前回に引き続き,いわゆる再転相続における相続放棄の熟慮期間の起算点についての問題を取り扱いたいと思います。

 

5.民法916条の期間延長以上の意味

 

前回の最後で取り上げたとおり,昭和63年最高裁判決は,民法916条について,再転相続人について第1相続と第2相続のそれぞれにつき,各別に熟慮し,承認または放棄をする機会を保障する趣旨も包むとしています。

 

この点について,民法917条では,相続人が未成年者または成年被後見人であるときについて規定されていますが,これは916条と同じく,相続人が十分な熟慮をすることができない(できなかった)ことが,民法915条の例外とする前提となっているとも考えられます。

 

上記昭和63年最高裁判決の判示は,民法916条について,917条とは異なる観点からの意義を認めるものといえます。

 

6.民法916条の「自己のために相続の開始があったことを知った時」の意義

 

では,民法916条の「自己のために相続の開始があったことを知った時」の意義とは,具体的にどのようなものを指すのでしょうか。

 

この点については,「自己のために相続の開始があったことを知った時」とは,再転相続人が自己のために「相続人の」相続の開始があったことを知った時であるという見解と,再転相続人が自己のために「被相続人の」相続の開始があったことを知った時であるという見解がありえます。

 

前者の見解によれば,再転相続において,被相続人と相続人の相続についての熟慮期間の進行が一律に扱われることとなるので,これを「一律進行説」,他方,後者の見解によれば,それぞれの熟慮期間の進行は別途進行することとなるので,これを「別途進行説」と呼ぶことにします。

 

まず,民法916条の「自己のために相続の開始があったことを知った時」とは,915条1項と同様に,相続開始の原因事実だけでなく,自己が法律上相続人となったことを知った事実をも知る必要があることについては問題がなさそうです。

 

ここで「別途進行説」のように解すると,再転相続人が,第1相続について熟慮期間の開始のために認識すべき内容は,第2相続について認識すべき内容を包含するはずですから,第1相続の熟慮期間が第2相続の熟慮期間よりも先に到来することはないはずであり,第1相続についての熟慮期間の伸長を趣旨としていた916条の意義は何なのかが問題になります。

 

おそらく,かつての判例は,「自己のために相続の開始があったことを知った時」を相続開始の原因事実のみの認識で足りるとしていたことから,916条に期間伸長の意義があるとされていたのだとも考えられます。

 

このように考えると,「別途進行説」では,再転相続の熟慮期間の起算点としては,915条1項のみで足りるはずであり,少なくとも916条には期間の伸長の意味がないことになってしまいます。

 

他方,「一律進行説」に立つとすると,再転相続人が「相続人の」相続の開始があったことを知りさえすればよいわけですから,916条を適用した場合,むしろ915条1項の場合よりも熟慮期間が短くなる可能性があることになります。

 

もちろん,このように解してもよいという見解もあるわけですが,再転相続の場合も含めて,相続放棄を広く認めようとしてきた判例や学説の潮流とは逆行することになります。

 

このように考えると,「別途進行説」を採ることが妥当だとは考えられるものの,民法916条の意義などについてはどのように考えるのかの問題は残ることになります。

 

 

再転相続については,非常に難しい問題が多く,親戚との関係がかつてほどは親密ではないという現代的な問題もありますので,私としても引き続き考えていきたいと思います。

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再転相続の場合の相続放棄の熟慮期間の起算点について(1)

こんにちは。

弁護士の江口潤です。

 

今回と次回は,いわゆる再転相続における相続放棄の熟慮期間の起算点についての問題を取り扱いたいと思います。

 

1.再転相続とは

 

再転相続とは,相続人となった者が熟慮期間中に相続の承認も放棄もしないまま死亡し,その相続人の地位をさらに相続した場合のことをいいます。

 

先に死亡した者を「被相続人」,後に死亡した者を「相続人」,それらを相続した者を「再転相続人」と以下では呼ぶことにします。

 

2.民法916条

 

再転相続の相続放棄の起算点に関しては,民法916条で「相続人が相続の承認又は放棄をしないで死亡したときは,前条第一項の期間は,その者の相続人が自己のために相続の開始があったことを知った時から起算する」と規定しています。

 

この条文の趣旨については,第1相続の放棄についての熟慮期間を被相続人の死亡時点からとしてしまうと,熟慮期間が非常に短くなって,再転相続人が十分な調査や熟慮ができなくなってしまうので,第1相続と第2相続の両方の熟慮期間の起算点を再転相続人が自己のために相続の開始があったことを知った時に伸ばしたと考えられています。

 

3.判例と学説

 

上記の条文の趣旨からすると,第1相続と第2相続の両方の熟慮期間は,自己のために相続の開始があったことを知った時から同時に進行すると考えるのが自然であり,従来の学説もこのように考えてきたようです。

 

この考え方のもとでも,再転相続人が,第2相続を放棄することなく,第1相続を放棄することも認められるとされてきました。

 

これは,再転相続人が,第1相続を放棄する相続人の権利を承継したとすることで,従来の学説からも理論的に説明することができ,矛盾するものではなかったからです。

 

しかし,昭和63年の最高裁判決(最判昭和63年6月23日家裁月報41巻9号101頁)では,第1相続について先に相続放棄をした後,第2相続を放棄しても,第1相続の放棄の効力は遡って無効にはならないと判断されました。

 

上記の判示部分に対しては,再転相続人が,相続人が有していた被相続人の相続を放棄するかどうかの選択権を承継したとする従来の学説から説明することは困難にも思えます。

 

他方で,上記昭和63年最高裁判決は,再転相続人が先に第2相続を放棄した場合には,第1相続につき承認または放棄をすることはできないとも判断しています。

 

この判示部分については,従来の学説と整合することは確かですが,最高裁が,再転相続人の第1相続についての選択権を,第2相続の選択権とはかかわりのない,別個の固有権とは考えていないといえます。

 

判例の立場についての一つの説明として,前者の判示部分については,第1相続についての選択権を承継した再転相続人が第1相続を放棄したうえで,第2相続についてどのような選択をするかは時点な問題であるにすぎない一方,後者の判示部分については,第2相続を放棄しておきながら第1相続の選択権を承継するというのは論理的に矛盾するから認められないと考えることもできそうです。

 

この判例に対しては,さまざまな考え方がありうるところです。

 

なお,上記昭和63年最高裁判決では,民法916条について,2で述べたような期間の伸長を認めるだけではなく,再転相続人について第1相続と第2相続のそれぞれにつき,各別に熟慮し,承認または放棄をする機会を保障する趣旨をも有するものであるとの位置づけをしています。

 

続きについては,次回に取り上げます。

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慣習の意味と周囲の理解

こんにちは。

弁護士の江口潤です。

 

今回は,外国人の友人から受けた素朴な指摘から私が考えたことについて書きたいと思います。

 

日本に来てくれた外国の友人を案内していたときのことです。

 

彼を大好きなとんこつラーメンの有名店に案内し,一緒に食事をしていたところ,彼は,突然,露骨に不機嫌な表情になりました。

 

彼が気分を害した原因は,周囲の客が麺を勢いよくすすっていたことにありました。

 

 

彼,いわく,

 

「日本人はいつも礼儀正しいのに,どうしてラーメンを食べるときにはこんなに失礼なんだ」

 

(彼によると,音を立てて食事をするのは,人前でおならをする以上に失礼な行為だそうです)

 

彼は,日本の文化や政治にも詳しく,日本のことも非常に気に入っているがゆえの疑問だったのだと思います。

 

 

私は,彼の指摘を受けて,すぐに答えが思い浮かばなかったのですが,

 

「日本でも,人前で音を立てて食事をすることは失礼なことだけど,麺を食べるときはそれが許されているんだ」

 

と説明しました。

 

おそらく,麺を勢いよくすすって食べることがもっともおいしい食べ方なのであり,その行為を周囲の人間が許容しているということなのだと思います。

 

ただ,そのような説明をしても,彼はやはりそのような食べ方に抵抗があるのか,首を傾げるだけで,まったく理解はしてくれませんでした。

 

(「もっともおいしい方法で食べるをすることが,料理や食材の作り手に対する尊敬につながるのであり,これは日本文化を象徴する行為だ」とでも言えば,説得的だったのかもしれませんが)

 

 

たしかに,昨今は,ヌーハラ(ヌードルハラスメント)なる言葉もあり,自分が当たり前に感じていた行為が,万人にとって当たり前ではないのかもしれません。

 

これは弁護士業界にもいえることであり,業界の人間が当たり前に感じていた慣習が,周囲の方にとっては当たり前ではないということもあるのでしょう。

 

このような場合,自分としては,周囲の方からどのように見られているか尊重したうえで,その慣習にどのような意味があるのか考え,意味があると思うのであれば周囲の方にその意味を説明する必要があるのだと思います。

 

 

ちなみに,私は麺類をすすって食べません。

 

そのおかげで,彼からはナイスガイと認定されましたが,その理由は失礼だと考えているのではなく,汁が飛び散るのが嫌だからです。

 

あえて理由を説明する必要もなかったので,その時の私は日本風のスマイルを返しておきました。

中高生模擬裁判(サマースクール)の報告

こんにちは。

暑い日が続きますが,みなさまは体調を崩されたりはされていらっしゃらないでしょうか。
弁護士の江口潤です。

 

今回は,前回に引き続き,愛知県弁護士会が主催しているサマースクールについて書きたいと思います。

愛知県弁護士会では,法教育の一環として,毎年,小学生や中高生を対象にサマースクールを実施しています。

サマースクールでは,憲法の精神を学ぶことができる小学生向けの劇や弁護士とディベートができる企画などがあります。

この企画には,毎年,多くの方に参加いただいており,平成30年の延べ参加者数は,平成29年よりも85名も増えるなど。参加者数も年々増加しているそうです。

私は,平成30年8月3日(金)に中高生向けの模擬裁判に参加し,弁護人役を務めましたが,これにも90名近い学生に参加いただきました。

今年の中高生向け模擬裁判は,とあるアニメ映画を題材にした刑事事件で,被害者が亡くなってしまった強盗致死事件の犯人性が問題になりました。

犯人役,目撃者役,アリバイ証人の恋人役も,すべて愛知県弁護士会に所属する弁護士が務めましたし,出演者とシナリオ作成者は,忙しい職務の合間に稽古も積んできました。

私自身には,演劇の経験はほとんどありませんが,学生さんに途中で飽きられないように,必死に演技をさせていただきました。

私の役は,普段から弁護士が行っている弁護人でしたので,ある程度,現実を反映した(?)演技ではなかったかと思います。

とはいえ,証人尋問や異議などでは,全般的に芝居がかったところはありましたが…。

演劇後の評議では,学生10名ほどのグループで,演劇に参加した弁護士らがまとめ役となって,事件についてどう考えたかという評議を行いました。

参加した学生の方には,同じ事件を見ているのにそれぞれで結論や考え方が異なるということが分かったことや,そう考えた理由を自分なりに説明したり,他の参加者の考え方を聴く機会を持てたりしたことが,よい経験になったようです。

評議ではさまざまな議論がとびだし,1時間以上とっていた時間は,参加者にとってあっという間だったようです。

今年の事件もそうですが,模擬裁判の題材では,シナリオ作成者は,有罪か無罪かなどについて「正解」というものを想定していません。

実際の社会でもそれぞれの立場にある者が,それぞれの考え方にしたがって行動するのですから,明確な「正解」というのは存在しないのが通常でしょう。

普段の学校の授業では,「正解」があるのが当たり前でしょうから,学生さんの中にはきっともやもやしたものが残ったでしょうが,そういう経験をしてもらうことこそ主催者側の意図していたことだといえます。

私自身,参加者のアンケートをひやひやした気持ちで確認しましたが,とても好評でしたので,正直,ほっとしました。

また参加させていただく機会がありましたら,「もっといい劇にしてやろう」と意気込んではいます。