善に対する正の優越

これまでの議論は,憲法学及び法哲学の議論です。

現在,法哲学で,善に対する正の優越ということが言われることがあります。

 

人々は,みな善き生の構想をもっています。生き方は人それぞれということです。

これに対して,正義は,個々人の生き方とは別の「正しさ」です(「正しさ」の基準は何かというのが,正義論の主要テーマです。)

以前,NHKでマイケル・サンデル教授の講義が放送されていましたが,まさにそこで論じていたのが,何が正義かという問題です。

 

大枠としては,功利主義(皆が一定のルールの下で自分の思い思いの生き方(善き生の構想)で生きたときに,全員の幸せの合計が最大となるルールがよいルールである)という(直観的に是認し得る)考え方に対する反論として,言われてきた経緯があります。

 

いずれにしても,自分と人との考え方,善い生き方の違いをきちんと理解した上で,正しいこと,間違っていることについてお互いが納得できるルールを作ることが必要で,それが民主主義であり,自由主義です。

 

 

 

価値の比較不能について

職業柄,色々な方とお話しして,色々な話を聞きます。

当然,色々な価値観をもった方がいますし,私自身自分の価値観をもっています。

 

その価値観が社会的に見て許されない(法律上認められない)のであれば,それは法律上認められませんと伝える必要がありますが,そうでないのであれば,リベラルデモクラシーの中で,それは許容されるべきで,私は,その生き方を尊重すべきだと考えています。

このような考えのもとで,色々な方の話を聞くと,それぞれの人の考え方,価値観をありのままに受け止め,そういう考え方もあるのだと,考え方を理解することができます。

 

初回の例を述べると,名古屋なのでドラゴンズを例にしますが,

私は実は(昔)ジャイアンツファンでしたが,ドラゴンズファンにドラゴンズのよさを語られても,それを受け入れて,そういう方もいると納得し,理解できます。

ただ,ドラゴンズファンであることを強要されると,嫌な気持ちになると思います。

 

野球の話であれば,皆様納得いただけると思いますが,人生観等については,難しい問題があるようです。

 

 

民主主義の前提について②

前回は,各人の生の究極にある価値は多様でありしかも相互に比較不能で有ることについて,簡単な例をあげました。

なぜこれが前提となっているのか,それについては,宗教をめぐる歴史を紐解くこととなります(この点,基本的人権における信教の自由は,人権の歴史において非常に重要なものです)。

詳細は歴史の教科書に譲りますが,単純な話をすると,異なる価値の間で,一つの価値が「善い生き方」であるとすると,他は「邪悪な生き方」となります。

「邪悪な生き方」については,これを「善い生き方」に導かなけばならないとなってしまい,これが争い合うこととなります(宗教戦争)。

そこで,リベラルデモクラシーは,その異なる価値が「比較不能」であることを正面から認め,異なる価値を信じる者の間でともに社会生活を営むルールとして考えられました。

 

この話を日常生活に応用したいと思います。

民主主義の前提について①

改憲についての議論が盛り上がっているようです。

今回は,弁護士らしく,憲法学の視点から,現在の日本の自由を尊重した民主主義(リベラルデモクラシー)について考えたいと思います。

 

リベラルデモクラシーが前提としていることは,各人の生の究極にある価値は多様でありしかも相互に比較不能で有るということです。

私がこの考え方でいつも例として思い浮かべるのは,野球のどの球団が好きかは人それぞれ(野球よりサッカーが好きという方も含めて)であり,どの球団のファンであることがいいかを議論しても仕方ないという例です。

 

ドラゴンズファンよりジャイアンツファンの方がよいとか,その逆ということはありません。どのファンであってもいいし,どちらがよいということは決められません。

どちらがいいということで議論すること自体,ナンセンスと言えますし,かといって自分の好きな球団をけなされたら腹が立って,喧嘩になることもあります。

 

続きは次回に